「罪悪感」の本質は、マウンティング女子

こちらのブログ記事の続きとなります。

①16年に及んだ摂食障害の遍歴と、恋愛依存→★★
②「傲慢」だった愛知時代と自己愛過剰社会→★★

 

前回の記事で、自己肯定感が低いことを歪んだ形で高めようとすると、自己愛過剰な状態を引き起こすこと、そして自己愛過剰な状態を「私は弱い人間です」という仮面をかぶることでマウントを取ろうとする、と綴りました。

 

「自分を弱い人間であることを主張することでマウントを取る」について、私自身の状態をメタトロンの結果と共に綴っていきます。

 


 

メタトロンの最上位機種には「感情」を測定できます、ということは前回までの記事で紹介してきた通りですが、どの部位でも測定されるのではなく、以下にあげた一部の臓器のみ感情のページが存在します。

▶︎女性(男性)の体
▶︎頭頸部
▶︎神経
▶︎脳
▶︎チャクラと経絡

 

以下の7枚は、8月27日の私の各部位での感情のページです。

 

【女性の体、頭頸部、神経系】

 

【脳、ミトコンドリア膜】

 

【経穴、チャクラ】

 

このように、感情のページも測定部位により、多少、結果は異なります。

特に脳の内部深くは測定される感情が増えます。

 

どの部位で、どんな感情が検出されるのか、というのも現在の状態を考察するための一つの判断材料となると思っています。

 

 

前回の記事の「傲慢」という感情を測定したのが1月24日、その後、私に登場したのは「罪悪感」という感情でした。

その時(2020年1月27日)の測定結果です。

 

 

私の考えに対し、「傲慢」とメタトロンは判断しました。

その後の私から測定されたのが「罪悪感」。

この流れだけを見れば、自分の問題を認識し、罪の意識を感じた人、と思えます。

 

でも、この時点では脳では測定されず、女性の体しか「罪悪感」は測定されていません。

 

つまり、自分が問題のある言動を行ったことを肌感覚ではわかっている。でも、脳という意識下では問題だとは認識出来ていない状態、と考えられます。

 

▶︎罪悪感が脳では検出されず、女性の体のみで検出されている
▶︎罪悪感という感情の本質とは?

ここが「弱い私マウンティング」の重要なポイントとなると思っています。以下に綴っていきます。

 


 

悠馬さんとメタトロン測定に通い出したのは2017年から、定期的にメタトロン測定に通っていました。

当時も、私には罪悪感が測定されていました。メタトロンを所有する前に測定されたのは以下の2回です。

いずれも女性の体のみ検出、脳では検出されていません。

 

 

 

その後、メタトロンを2019年11月に所有してから、罪悪感が測定されたのが以下となります。

 

 

 

 

 

 

 

ここまでも、罪悪感は女性の体のみで測定。脳では測定されたことはありませんでした。

そして今年の6月20日より、ようやく脳からも検出されるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

以上が現時点での私の罪悪感が測定された時のデータです。

 

 

罪悪感とは一体、どんな状態なのでしょう。

 

心理学辞典によると「罪の意識あるいは罪悪感ともいう。法律上の犯罪ばかりではなく倫理的、道徳的、宗教的規範に背き過失を犯したあるいは犯そうと欲した時に感じる自己を責める感情」とのことです。

 

罪悪感という感情が測定されたということは、自分に罪の意識が存在している時だと思います。

 

でも。

「罪の意識がある」=「罪と向き合おう」

と自動的に転換されるかといえば、そうではないのです。

 

むしろ罪悪感がメタトロンで測定された時は「罪と向き合う気がない」という状態を表しています。

 

 

まず、私は6月5日までの結果では、女性の体では罪悪感が測定されるも、脳では測定されない、という状態でした。

罪の意識すら、まだ、顕在的な意識下にはない状態です。

 

でも、私が明らかに問題の言動をしていたことは前のブログまでで十分伝わると思います。

それを悠馬さんから再三指摘してもらうも、問題とは顕在的には認識していない状態だったというわけです。

 

ここまででも十分問題なのですが、このような状況となる背景として

▶︎あまりに自分の問題ある状況が長すぎたため、自分の問題を認識できない
▶︎認識する=自分の過去を否定する、これを本能的に回避したいという反応

こういった結果、自分の問題から目を背け続けていました。

 

自分の問題を認識できなければ、そもそも、改善しようとも思いません。

その問題を認識しなくてもよくさせる魔法の(恐怖の)言葉が「ありのままのあなたで大丈夫よ。」です。

 

 

当時の自分を思い返すと、悠馬さんが私に指摘したことの本質がわかっていなかった。

でも、その指摘されることに、私は異様な恐怖を感じていました。このままでは私たちの関係が崩れてしまうのでは、彼を失ってしまうのでは、という恐怖。

 

これも私が人と真剣に対峙したことがなかったからこそです。

相手と対峙する、ぶつかり合うことで生まれる世界を経験したことがなく、ぶつかるぐらいならば別離を選べばいい、というのが私の長年の精神状態でした。だからこそ恋愛が長続きしなかったか、表面だけの関係に留まっていた。

 

彼は表面の関係に何の価値も置いていません。表面の関係って何?そんな関係で、何が生まれて、何が満たされるの?というのが前提としてあった。

 

だからこそ私は結婚をしている身で強烈に彼に惹かれたのです。

 

ものすごく言い訳で、自分を守りたいだけに書きますが、過去、浮気も不倫も当たり前の私でしたが、最初の結婚をしてから悠馬さんと出会うまでは他の方と関係はありません。(もちろん、こんなの当たり前すぎることですが。)

不倫を正当化したい気持ちは今現在もありません。自分たちの行った行動に、今、責任を持って生きていると思っています。

 

話を戻します。

 

私の根っこには、人と深く深く融合したい、結ばれたい、という想いが強烈にあることを感じています。これはホロスコープからも明らかとなったのですが、私のICは射手座、サビアンシンボル25度。

 

その意味をサビアン占星学―サビアンシンボルで知る人生の意味と目的 / 直居アキラ著より一部引用します。

「このディグリーの人は豊かなエネルギーに満ちている。そのエネルギーはホルモンともリビドーとも考えられるのである。それは性的エネルギーでもあり、創造的エネルギーでもある。」

 

またドラコニックチャートという自分の潜在性を示すチャートでは太陽も月も蠍座です。

ちなみに私はネイタルチャートもサイドリアルチャートも太陽も月も水瓶座、アセンダント乙女座です。ここだけ切り取れば風や土の人。でも、私の根底には蠍(水)や火の精神が渦巻いている。一部の情報だけで占星術を理解することは自分自身の理解からむしろ遠のく結果となると思っています。

 

 

私の根源的な欲求として、人と深く繋がりたいと強く求めている。もちろん、これは誰しもが持つ、本能的な欲求でもあると思います。

 

でもそれを私は自分で蓋をしていました。

 

誰かと深く繋がるためには、自分を難くなに守り続けている限り、不可能です。

それは結局のところ、相手を想う気持ちが欠損しているから。常に自分のことだけとなっているからです。

 

悠馬さんはもちろん私を陥れさせようとして私の問題を指摘したのではなく、より良好なパートナーシップを築くため、私のことを想うからこそ、言葉を選び、エネルギーを使い、指摘をしてくれていた。

それは健全なことなはずです。

 

そうやって彼は常にオープンで私に向き合ってくれたのに、私は奥底でずっと自分の殻を破ることがなかった。

 

それよりも、こうしてぶつかる状況となることがただ苦しくて、早くこの状況を収めて、穏やかな日々が戻ってきてほしい。私が謝ります、それで許してください。そんな気持ちでした。

 

本当の解決方法は、私が自分自身の問題を認識し、そこを乗り越えていくことなのに。

 

 

そんな気持ちでの謝罪に、心があるのかといえば、もちろん違います。形だけ。

 

相手がなぜ、そういった指摘をしてくれたのかを深く考えることがなかった。

 

それでも、そもそも人と本気で向き合ったことがなかった私だったので、これでも真剣に向き合っていると思っていました。

だからか、当初は一旦、悠馬さんとの議論は収束していたように思います。でも本質的な問題が解決したかと言えば、していません。

 

私が心の底で自分に向き合うことを拒み続けていたことで、同じ問題がまた浮き彫りとなってくる。当たり前の事実です。

 

その度に彼が私の問題を指摘し、私は謝罪の気持ちを返す。次から同じことを繰り返さないために、こういったことを気を付ける、という枝葉的な具体策も言っていました。

 

 

でも、彼に「心が伝わらない。」と言われたのです。

 

 

これも、当時、私は理解出来ませんでした。

どうして私は自分の非を認め、こうして謝っているのに、改善策を提示しているのに、それを受け入れてくれないんだろうと思っていました。

 

 

今となればわかります。

彼は謝罪を求めているわけではない。心を込めたコミュニケーションを図っていただけ。

 

 

それに対し、私はただただ、今の状況が治まって欲しい、という気持ちが一番でした。

まさに今までの私の人生そのものが、この思考に現れている。

 

 

今まで表面だけの関係を続けて、そこが不満だったにも関わらず、深くぶつかれば逃げている。

結局、状況が変われば変わったで不平不満。

 

 

 

「決して目の前の現実を直視しようとしない。」

これが罪悪感の本質です。

 

 

もし、本当に罪を感じていたら、相手のことを心から想う気持ちを持っていたならば。

自分の罪(間違い)を認識し、行動を改めているはず。

 

罪悪感という状態は、自分に問題があると自覚しながらも、改善しようとする気がない。

結局、相手のことを考えているというふりをして、実際は考えていないという状態。

 

 

コンステレーションが教えてくれること,小林真美著」の中で、罪悪感についての理解に大きな助けとなった一部を引用します。

 

罪と罪悪感

「私たちは通常、罪と罪悪感を同じものとして扱いますが、実際には罪と罪悪感はそれぞれ関連するけれども別のものとしてとらえる必要があります。

罪とは、その罪を犯した人がその事実から逃げずに誠実に向き合い、自分の責任を認めた時に、何か善いものを生み出す力の源泉へと変容を遂げます。その時に口にする言葉はこのようなものです。

「私がやりました。それは誰のせいでもなく、私がやったことです。私はそれを自分のものとして背負って生きていきます。そして、必ずそこから何か善いものを生み出します。」

このように言葉にすることで、犯した罪は消えないとしても、そこから建設的な、創造的な何かを生み出す力が自身の内側に湧き上がるようになるのです。真の後悔とは、驚くほど前向きな力を与えるものとなり得ます。」

 

一方、罪悪感とは、自分が何か悪いことをしたという自覚があるにもかかわらず、その事実をなかったことにしようとしたり、あるいは他人のせいにしたりして、自ら責任を取ろうとしないときに意識の背後につきまとい、常に力を失わせるものです。他の誰も何があったのかを知らなかったとしても、本人にやってしまったことへの自覚があり、そこから逃げている場合、当の本人は自分に嘘をつき続けることになります。そうすると、その人の人生は嘘を基盤としたものとなっていきます。一時の保身が人生を不完全燃焼に終わらせる力を持ちます。」

 

私はまさに罪悪感の女でした。

それを直球で教えてくれたのがメタトロンです。

 

どうして罪の認識はあるのに、逃げ続けるのか。

 

自分の問題に向き合うのが恐いから。恥ずかしいから。

それが顕になることが、耐えがたいほどの恐怖だから。

 

これは今回の一連のブログで何度も綴っていることです。

 

 

自己肯定感が低い人であればあるほど、今まで自分から逃げてきた人であればあるほど、何もない自分をみつめること、今までの人生を振り返ること、それは絶望なほどの痛みを伴う恐怖となる。

特に自己愛過剰な状態となっていればなおのこと。

 

私、間違っていたのね、と素直に否定して正せばいいだけのことなのです。

 

自己肯定感が低い自分を守るために、「自分は素晴らしい」と対象療法的に対処することで、結果的に自己愛過剰な状態となる。その結果、自分を否定することに耐えがたい苦痛を伴う。

 

これはステロイドという免疫抑制剤と同じです。問題に向き合うことなく、盲目的に対症療法を選択することで、自分自身の問題の根源がより複雑化していく。

安易な対症療法を求める思考にも陥っていく。

 

 

だからこそ、精神的な問題にも対症療法が流行っている。ステロイドと同じです。

「自己肯定感が低いことが問題だから、低い自分を認めてあげよう」
「どんな自分も愛してあげよう」
「あなたは本当は愛されていたのですよ」

 

 

でも、その考えで自分を守っている限り、弱い私を演じることでマウントを取っている限り、自己肯定感はいつまでたっても健全な状態とはなりません。

 

私自身がまさに今、そこと戦っていますし、うんざりするほど同じことを繰り返す自分を認識しているので、これだけは言い切れます。

 

結局は自分の問題に向き合うことしかない。

過去の自分を殺し、再生していくしかない

 

 

自己肯定感を健全な形で高めるために。

依存の心から脱却すること、これしかないと思っています。

 

私自身で言えば、

■愛知の頃の、代替療法士バニラさんや、こじまりえさんの模倣だった自分を捨てる

■悠馬さんに依存することなく、健全なパートナーシップを築く

■親への依存の精神を断ち切る

■命を軽視していたことを認識し、今を本気で生きる

■母親としての自分の精神が子供達にダイレクトに影響することに覚悟を持つ

こういったところだと認識しています。

 

 

 


 

今回は「罪悪感」を私が強く抱いていたので、ここからの切り口での考察をしました。

 

ただ、極度の怒りも、大袈裟に悲しみに溺れているのも、いずれも根本は同じことだと思っています。本当の自分が顕になることに恐怖を感じ、そこから目を背けるための反応です。

 

自分の問題に気が付くことが、まずはスタートラインだと思っています。

でも、何が問題だったのか、ということを本当に心の底から納得しない限り、スタートラインに立つことすら困難です。

 

 

反対に、心の奥底から気づき、納得し、腑に落ちた時。

それは自然と意識が変わる。流れが変わる。

その結果、未来は自然と変わっていく。

 

 

これでも、自分の問題を認識し、そんな自分をどんどん殺して、死んでもらって、新しい自分に出会えた方がいいよね、と、ようやく思えるようになったと思っています。

 

その時に、心に痛みが伴わないというのはあり得ないとも思っています。

それを苦しいから悪だと思うのか、成長のために必要な過程だと捉えるのか。

 

 

 

私もここまで、何度も何度も葛藤しました。

自分の問題を直視し、そこで苦しい感情の波を味わうことが再生の鍵となるのか、どうしても懐疑的な自分がいました。

 

傷つくことを最小限に抑える方法があるのではないか。

 

でも、そういった方法を求めた結果が今までの私であり、今現在もそうして楽な方法に逃げた時こそ、メタトロンが「あなた間違っています」と静かに教えてくれます。

 

9月8日の結果です。

罪悪感と同様に、無関心も問題です。これも「自分の問題に目を向けたくない」という逃避の状態。(ただ、他の感情との組み合わせで解釈は変わります。 )

あぁ悔しい。

過去の自分を殺す!というほどの強い覚悟しか自分を変える手段はありません。

 

 

すべては自分の中に答えがある、というのはある意味正しいと思います。

自分の何が問題なのか、メタトロンは、そこに気づきのボールを投げてくれます。表面で隠していることもすべてお見通し。時に残酷なほどに直球ですが、それくらいの直球でなければ、凝り固まったものは破壊しない。

 

これほどまでに背中を押してくれるものはないと思います。

 

徹底的に破壊すれば、その先に、ようやく再生が始まる。

 

人生の悩みも、体の症状も、すべて単なるサインです。

あなた、自分の人生、生きていますか?というお知らせです。

そこを乗り越えていくことが人生の喜び、充実感を与えてくれるのだと思います。

それは決して楽になることとは同義ではありません。

 

 

メタトロンという道具を使い、その気づきのボールを共に考えさせてもらえたらと思っています。

 

大阪で開催、受付中です。

メタトロン・セッション(Etsuko)

 

藤原 悦子タイムウェーバー 心理分析
看護師

看護師として勤務時、自身の体調不良から自然療法の世界に出会う。また、幼少期からのアトピー性皮膚炎に長年ステロイド薬を使用していたが薬では症状の根本改善しないことを実感。長女の出産を機に薬に頼らない生活に徐々にシフト。身体のメカニズム、自然療法などの学びを深め、子育てお母さんへ向けた講座を開催。全ての問題の根源は意識であることを認識しメタトロン測定会、タイムウェーバーセッションを実施中。現在はICU看護師の世界に身を置き、西洋医学、代替療法、いずれにも偏らない視点を目指す。週末は畑生活。小学4年生、2年生、年中、0歳児の4児母。

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