悠馬さんのブログをご覧いただいた方も多いと思いますが、講師業から一旦離れ、看護師に復帰します。
私自身のけじめのため、ブログを綴らせていただきます。
honoiroを一時休業の経緯
元々、看護師をしていた頃「西洋医学には人間の健康の真実はない」と今となれば間違った認識の元、代替療法の世界にシフトしました。
そこから長女を出産した8年前に「ワクチンは悪だ」というのが私の根底に横たわり、
・ワクチンが全ての病気の根源だ
・病院は症状がある人に薬を処方される。それに対しワクチンは健康な子に打って、病気を作っている
と、ガッツリと思い込みました。
その結果、みんな気づいて!という歪んだ正義感が発生。
今、冷静に考えればこれらは全て「単なる私の感情的な思考」の結果です。
そこに科学的な根拠は皆無でした。
健康のことやワクチンのことを扱っているならば、尚のこと、科学的根拠は重要にも関わらず、あまりに軽視していました。
では何が根拠?
出処不明の代替療法の世界です。
私は一般情報を鵜呑みにしていない、能動的に考えていると思い込んでいましたが、実は西洋医学を盲信していた過去と全く変わりませんでした。
…と冷静に書いていますが、ここを認識するまでに、大きな壁がありました。
看護師をしていた頃、段々とやりがいを感じられなくなっていく自分がいました。一般病棟では患者さんとの意思疎通でやりがいを感じていたものの、自分の看護師としてのスキルを上げたくて挑戦した手術室やICUでは意識のない方が大半。今、改めて看護の勉強をし直していますが、当時は知識の面も暗記だけ、業務をこなすだけ、何も理解できていなかったことを痛感しています。
そんな状態で看護をしていたからこそ、もちろん成長しません。特にICUでは自信もなくし、自分の存在意義を見出せなくなっていました。
そもそもですが、看護の世界だろうが、どこの世界だろうが、自分の意識次第でやりがいなんて見出せます。学びはどこにでもあります。
でも、私はその時に自責にすることなく、他責にしました。その結果、西洋医学や医療の仕組みに問題があるという意識に移行していきました。
つまり環境の責任にしたのですよね。
農薬の存在が悪い!
添加物が悪い!
砂糖が悪い!
政府が悪い!
社会の仕組みが悪い!
学校教育の仕組みが悪い!
…こういったものと同じだと思います。
その後、看護師としての私ではなく、一個人の私の元にお客さんが来てくれる、ということが私の存在意義を高めてくれました。
もちろんこうして仕事が成り立つということはありがたいことですし、一般的です。
でも、それが真っ当なことをやっていたのならば、という話で。
真っ当じゃなかったの?そこまで過去を否定しなくていいんじゃない?
というご意見も頂きますが、考えが甘かったのは事実で。その前提で続きをご覧下さい。
結局のところ、私は自分の軸がなかった。
なので看護師をしている頃はその満たされない思いが摂食障害や男性依存を起こしました。
その後、最初の結婚と愛知の頃の講師業によって、初めて自分の軸が出来た感覚がありました。
だからこそ、その自分を悠馬さんに否定されることが私にとっては受け入れ難いものとなり、抵抗し続けました。でも自分では抵抗しているつもりなく、自分の考えを主張しているだけと思っていました。
ワクチンや西洋医学への嫌悪感によって、歪んだアイデンティティを生み出したので、その思想を「問題だった」「私は間違っていた」と認めてしまうと自分のアイデンティティがなくなるわけです。
だからこそ、その思考を否定されることが、私にとっては「私の存在」を否定されていると思えて仕方がなかったのです。
どうして私の存在を否定するの?
そしてなぜ、ここまで意志が強いんだ、悠馬さんは。なぜ諦めないんだ。笑
いいじゃないか、この私を肯定してくれたって。
ここまで私を否定して、これを愛しているなんて言わないんじゃないか?
とかグルグルしていました。
そんな状態の私と、悠馬さんの会話が成り立つわけもなく。2人で仕事をしているわけなので、段々と意識の乖離が生じていく。このような仕事を共にしていなかったらそんな違いを認め合うことも一つの夫婦の形かもしれません。でも私たちはそうではないわけで。ここが私たちの仕事のメインコンテンツだったからです。
そしてメタトロンとタイムウェーバーという精神や感情を測定する周波数測定器で仕事をし、占星術も行使し、何より表面的な関わりをしない悠馬さん。
私たちは「安易な自己肯定が精神に問題を生じさせる」「感情にのまれることが問題」と皆様にお伝えしてきた。
でも、私がその状態に陥ったわけです。
もちろんその状態の私を彼が受け入れることはありませんでした。それは今までのクライアントさんやブログをご覧いただいた方を裏切る行為にもなります。
でも、どうして私を受け入れてくれないんだと自己憐憫になる私。
話し合う度に平行線。
私が言うのも何ですが、彼の考え方や表現方法は一般的ではないと思います。
流石にそのことは理解していたつもりでした。
でも、いざ、その矛先が自分に向けられたことで、私は感情を制御することが出来ませんでした。
なぜならば、私が悠馬さんに依存していたからです。
その彼に否定されることで過剰な恐怖や羞恥心が生まれました。しかも前途した、自分のアイデンティティの中心が崩れることも拍車をかけました。
感情の力は凄まじいエネルギーだと今回、身をもって実感しています。
だからこそ、この自分の感情を無き物にすることが出来なかった。
それをそのまま、彼にぶつけました。
その結果、私たちの夫婦関係は一時破綻しました。
ちなみに、間違ったタイムウェーバーの使い方。
どうしても悠馬さんに非があったと思いたい私は、彼がモラハラじゃないの?等、聞きました。
「違いますよ。」と答えるタイムウェーバー。
でも自分の感情に支配されていると、歪んで受け取る私。
そのようにタイムウェーバーに聞くこと自体は問題ないですが、その結果を自分の都合の良いように解釈している状態では周波数測定器を扱う資格はありません。それではクライアントさんにとっての共犯者にも成りかねないからです。
愛することと依存
過去のブログにも綴っていますが、私はお付き合いした方の人数は多い方だと思います。でも、そこに愛が存在していたかといえば、ひどい話ですが、なかった。もちろん、0か100かで答えられることではないですが、私が愛だと感じていたのは、好きという気持ちだったと思います。
そして、こうして依存することが、私にとっての「愛のかたち」となっていました。
でも、それでは悠馬さんとの関係がうまくいかない。
どうしたらいいのか、本当に悩みました。こんなにパートナーシップで悩んだのは人生で初めてです。そもそもそれが、これだけの恋愛経験を経てきたのに、今まで本気で人と向き合ったことがなかったことを象徴していますが。
今までの私だったらすぐに別れを選択していました。
ある時、ふと、私は自分のことを肯定して欲しいと思っている。なのに悠馬さんのことはそのまま肯定していないなって思ったんですよね。
これ、矛盾しているし、ずるいなって。
私は愛するということを甘く考え、それなのに愛されたいばかりになっていた。
これこそが能動的ではなく、依存な状態を表しています。
これは認めたくない事実でもありました。
愛するとは何?と私の葛藤の助けとなったのが、エーリッヒフロムと言う社会心理学、精神分析、哲学の研究者です。
フロムは生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると言っています。だからこそ習得しなくては、愛について学ばなければ身につかないといっています。
この哲学チャンネル、悠馬さんが仕事の休憩の時に見ていて、上記に対しても、彼は当たり前だよね、という感覚で見ていました。
私は目から鱗だらけで。愛というものをあまりに軽く考えていたようだ…と思わずにはいられませんでした。
それからフロム著書の「愛するということ」を読み、今回の私たち夫婦のことも含め、私の課題が明確となったように感じています。
愛するということ/エーリッヒ・フロム(著)鈴木晶(翻訳)/エーリッヒ・フロム
本の中から一部、引用させていただきます。
“たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、つまり愛する能力の問題としてではなく、愛される問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、と言うことだ。”
“幼稚な愛は『愛されているから愛する』、と言う原則にしたがう。成熟した愛は『愛するから愛される』と言う原則にしたがう。未成熟な愛は『あなたが必要だから、あなたを愛する』と言い、成熟した愛は『あなたを愛しているから、あなたが必要だ』と言う。”
“現代人にとって幸福とは、楽しいことだ。楽しいことは何でも手に入り、消費できることだ。物質的なものではなく、精神的なものまでもが、交換と消費の対象となっている。必然的に愛をめぐ状況も、そうした現代人の社会的性格に呼応している。
重要なあらわれの一つがチームという概念である。幸福な結婚に関する記事を読むと必ず『結婚の理想は円滑に機能するチームだ』と書いてある。そうした発想は滞りなく役目を果たす労働者という観念と対して違わない。そうした労働者は『適度に自立』しており、協力的で、寛大だが、同時に野心にみち、積極的であるべきだとされる。同じように結婚カウンセラーは言う。夫は妻を『理解』し、協力すべきだ。一方、妻は夫が疲れて不機嫌で帰宅した時は優しく労り、理解しようと努めるべきである、と。”
こうした関係を続けていると、ふたりの間柄がぎくしゃくすることはないが、結局、ふたりは死ぬまで他人のままであり、決して『中心と中心の関係』とはならず、相手の気分をよくするように努め、礼儀正しく接するだけの関係にとどまる。
愛と結婚に関するこうした考え方は、耐え難い孤独感からの避難所を見つけることに、いちばんの力点が置かれている。”
“信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことからはじまる。第一歩は自分がいつどんなところで信念を失うか、どんな時にずるく立ち回るか、それをどんな口実で正当化しているかを詳しく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむく、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人の意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。
人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こす事であり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念をもっていない人は、わずかにしか愛せない。
愛の習練にあたって、欠かせない姿勢がひとつある。それは能動性である。”
それまでは、悠馬さんはどうして私をここまで卑下し、傷つけるんだ、という気持ちで心がいっぱいになっていました。
そこに私は彼の気持ちを考えるという意識が欠けていました。
私から愛されているのではなく、依存されている部分が大半だった。
それでも孤独になりたくないと思えば、それを否定する必要もない。
でも、それでは私の精神は落ちていくことだけはわかっている。
もちろん彼もその関係を求めていないし健全なパートナーシップではなくなる。
なぜ、悠馬さんも苦しくて大変な思いをしてまで、ここまでも今の私を肯定しないのか。
そこを、ようやく自ら理解し始めた時でした。正直遅すぎました。悠馬さんはよく諦めなかったなぁと思います…
私は悠馬さんのことを理解しようとする気持ちに欠けていました。
これは彼のことだけでなく、物事全てに対してです。
私に必要なのは、自分で愛することを能動的に行うこと。その対象は彼に限った話ではなく、まさに「隣人を愛する」だと思います。
私たちが結婚という契約を続けるにしても、やめるにしても、私が自ら能動的に生きない限り家族は巻き込まれますし、私の人生も停滞していきます。
看護師に復帰します
現状のままではhonoiroとしての活動を続けられる状態ではなく、看護師に復帰します。
ICUに再挑戦します。
正直、看護師も、さらにICUに挑戦することも不安が勝り、私の成長と未来のことを考えた上で悠馬さんから背中を押されましたが、決断できずにいました。なぜ大変なICUを勧めるのだ…と卑屈にもなりました。
看護師、特にICUという現場は患者さんの命に直結することは十分感じています。それはこの情報の世界でも同等であるにも関わらず、発信者としてのその覚悟が、今までの講師業やメタトロン測定会では私には欠けていました。
こうして振り返りの記事を書きながら、私にとってICUに再び携われることは、当時、挫折した自分への挑戦でもあり、また、反ワクチン、反西洋医学に陥った自分の意識を変えるために、そしてコロナで大変な今、私にとって必要だと思っています。
とまた綺麗事を書いていますが、ブランクもあり、子供も3人でまだ小さく、まずはパートで週に4日のみの勤務です。
フルタイムで子育てをしながら夜勤を行う看護師さんと比較すれば時間的にも余裕があります。
看護師に復帰することで、何かの罪滅ぼしをしたと思ってしまう甘い自分がいることも感じています。それでは病院や患者さんに対しても失礼なことですし、もちろんそんな甘い世界ではありません。そもそも、まだ始まってもいない。
私自身が疎かにしてきた部分を一から積み上げていくために、奇跡的に環境や条件など、ありがたい機会をもらったことを謙虚に受け止め、取り組んでいきます。
honoiroはしばらくは彼が一人で発信していきます。悠馬さんのどこにも属さない、あらゆる物事を繋げて考える分析力は圧倒的だと思っています。
最初に私の問題点は科学的根拠に欠けていたことと綴りましたが、現在は科学的根拠が印籠のように氾濫する、情報が混沌とする時代となっています。それによって、新たな分断が発生しています。そこに対し、客観的思考で投げかける彼の視点は現代において必要だと思っています。
私もまた、意識を新たにこの世界に携わりたいと思っています。そのために、まずは看護師としてがんばります。
メルマガでブログ更新や悠馬さんの講座のご案内などさせていただいています。